「お母さん死んで!」
認知症になってしまった母。
介護疲れから思わず発してしまった
娘の一言・・・。
追い詰められた涼子さんは生きるために一筋の光を見出しブラジル行きを決意。
そこで出会った温かい眼差し、ふれあいの中で心身共に救われ、今、お母さんとの良好な関係を取り戻し、穏やかな日常を送っている。
介護期間・・・日本で3年半/ブラジルで3年半、うち老人ホームへ1年弱(2015/8現在)
◆年齢・・・82歳
◆茨木県出身/洋裁学校卒業
◆性格・・・姉御肌で面倒見がよく、頼られる人柄で、仕事も家事もバリバリこなし、義理と人情に厚い
◆東京へ
洋裁学校を卒業した18歳のとき、その人柄と技術を見込まれて、跡を継いで欲しいと言われたほどだったが、東京へ憧れを抱き、上京。その後、製本工場へ就職。
◆結婚
同僚と結婚。夫の実家は地元有数の資産家で製本会社を経営しており、夫婦で家業を手伝うことに。併せて大家族の一員となる。
◆独立
夫の実父が亡くなったのをきっかけに独立。
一人娘をもうける。
◆年齢・・・50歳前半/東京都出身
◆仕事・・・日本では、外資系の物流関連企業で働いていたが、母のことを考え自宅近くで再就職。現在は、英語の翻訳。
◆独り子のせいか、母は何かにつけて敏感で、過干渉&過保護だった
◆両親のことは大好きで、関係も良好だった
◆ある時期の2年間以外はずっと実家暮らし
◆実父の介護
・父が68歳のとき、すい臓ガンと診断され手術は成功したもののその影響で糖尿病などを併発。
・その後、8年間、入退院を繰り返し、その間は母が父の介護に当たっていた。
◆母は介護の為、大好きだった仕事を(自営業)やめ介護に専念する。
⇒◎介護にあたっては、金銭面や将来的なことなど、口には出せない心労があったと思う。
◆父は亡くなり、その少し前に実妹も亡くした。
⇒◎母は相当なショックを受けて、大きな喪失感と寂しさを抱え、徐々に言動の変化が現れ始めた。時期だったと、振り返ってみて感じる。
◆父を亡くしてすぐ
・友人や近所の人たちの悪口を言うようになった
・付き合いの良い近所の人が来るのも嫌がった
・怒りっぽくなった
・私に対して、さらに過干渉になっていった
・些細な事ですぐにパニックになったり、怒りを私に向けるようになった
◆私が一人暮らしを始めてから、週末帰る度、
繰り返し買った商品が部屋中にあふれていた
ティシュペーパーや石鹸などは、タンスや収納棚、ありとあらゆる所にしまい込む
◆食器などの洗い物をキッチンにためてゆく
⇒悪口
友達も多く社交的な性格だったのに、他人の悪口を言うなんて・・・、と少し戸惑ってはいたが、まさか認知症の初めだとは気付きもしなかった。
⇒過干渉
・過干渉には本当に困った。過干渉から苛立つことが増え、言い争いになり、さらに怒りをもって私に向かってくる。結果、性格が似ているせいか大きなケンカに発展してゆくことが多くなり、ほとほと疲れていった。
・仕事は朝早くから夜遅くまで忙しかったが、かえって気が紛れて有難かった。
◆耐えかねて・・・
・私も大好きだった父を亡くし、悲しく寂しい思いを抱え辛かったのに、母のことで精神的に追い詰められてしまい、一人暮らしを決意する。
・母を説得し、勤務先近くに引っ越したが、週末は必ず実家へ帰るようにしていた。その頃から実家には同じ商品がいっぱいあったり、台所に汚れ物をそのままにしていたりと、母の行動に徐々に変化が現れてきた。
◆再同居するようになり、私の夜の帰りが遅いとき、パジャマ姿で近所を徘徊するようになる
◆週末、私が出かけようとすると、「具合が悪いから出かけないで」とひつこく頼んだり、出先に「体調が良くないからすぐに帰って来て」という電話やメッセージを何十回もしてくる。
◆何度も夜間に救急車を呼び、医師の診察を求める。
やはり、母が心配になってきたのと、近所の方へ迷惑をかけられないという思いで実家へ戻り、近くの会社へ転職。
⇒徘徊
帰宅途中、似た人が歩いているなぁ、と思ったら母だった。まさか!?という思いで驚いた。そのうち近所を巻き込んでの徘徊など本当に大変だった。
⇒家にいても、出かけ先でも、母のことで気を休めることが出来ないでいた。
⇒救急車
夜中に勝手に救急車を呼ばれ、私もかなり困惑したが近所にも救急隊員にも医師にもかなり迷惑がられた。
隊員にはブラックリストに載せられ、「またですね」と嫌味を言われるし、医師には「もう救急外来には来ないでください。あなたのせいで時間が取られ、大事な命が救えないかもしれないんですよ」と怒られる。でも、当の本人である母は、「私がこんなに苦しんでいるのに何で怒るのか!何で診察してくれないのか!」と突っかかっていく。結局、診察後「どこも悪くない」と言われると心から安心した様子で「あ~、お腹がすいた」と笑顔で帰宅する。
◆再同居の末に
・再同居が始まって間もなくの頃、勤めていた会社が倒産し、私は家に24時間いることが増えてきた。そのせいで安心したのか、母の張り詰めていた糸が切れたようで一層症状が重くなっていった。
・救急車騒ぎや徘徊などで、私は疲れ果てフラフラになっていた。
◆悪循環
・精神的にもかなり追い込まれていた。近所の冷たい視線と言葉に、救急外来の医師に言われた「家族の愛が無いから不安にさせてしまい、こんな騒動をおこすんだ」の一言など、それら一つ一つに深く深く傷つき、その痛みと苦しみはやがて怒りに変わり、その発端である母へと向けられていく。
「どうしてこんなに頑張っているのに何で分かってくれないの?」と、つい母にぶつけてしまう。その真意を母は分かってはないけれど「何言ってるの!」と怒り返してくる。取っ組み合いのケンカもしばしばあったが、長年、仕事で培われてきた母の気迫や力は、私をはるかに上回っていた。
◆わたしの入院
・ストレスでトータル3か月間ほど入院をした。
・その後、入れ替わるようにして母も同病院に、認知症ということで入れる期間の(最大で)3か月間、入院させてもらった。
・このままだと「共倒れになる」という危機感に襲われていた。
◆相談相手
・どうしたら良いか分からなくなっていた時も相談できる相手がいなかった。
・親戚縁者もそれぞれ問題を抱えていたため、相談はできなかった。
・介護認定を取る手続きなどもしたけれど、役所や専門機関への相談は何の解決にもならなかった。
◆老人ホーム
・公的なホームは比較的安価なため100人待ちと言われ、私立は高価なだけあって建物も豪華でケアーも最適だけど、大事にされ過ぎて一人で何も出来なくなりそうだと感じ、母を入所させるのに躊躇われた。母の認知症は24時間ではなく、時々、程度の違う症状が出るだけだったし、身体はとても健康だったので、そのような母に合う、また経済的にも適ったホームは見つけられなかった。
◆近所の視線
・何より、周囲の冷たい視線や、聞こえるように放たれる容赦ない陰口、陰険な態度などに耐えられなかった。
「なぜ結婚しないの?なぜ就職しないの?」と母だけでなく、私のことまで執拗に干渉され本当に嫌だった。
◆もう死ぬほかない・・・
・再同居を始めて3年半が経ち、もうどうにもならなくなって、母に「お願いだから死んで!じゃなきゃ私が死ぬ!」と言ってしまうほど心身共にボロボロになっていた。
◆救いの言葉
そんな時、サンパウロへ家族で移住していた大学時代の友人からメールが届いた。
「夢に出てきて、あなたとお母さんが寂しそうな顔で『遠くに行く』と言っていたので心配なって・・・」というもの。私は母のことなどありのままに話したら、「サンパウロにおいでよ。日本語も通じるしサポートもしてあげるから、お母さんと犬と一緒にパスポートと旅券だけ持っておいで」と言ってくれた。
◆決断、そして準備
・ブラジルなんて行ったこともないし、ポルトガル語も分からないけれど、〈このままでは死ぬ他ない〉と思っていたので、その友人の言葉にすがってみることにした。10月1日にメールをもらって翌年の1月21日にはもうサンパウロに着いていた。
・短い間にすべての手続きや荷物の準備などを終えるのは、とても大変だった。
・まず、母のパズポートを受け取りに行く際、本人が嫌がり何週間もかかった。やっと窓口まで引っ張っていたが、本人のサインがどうしても枠の中に入れられず、8回目でようやくOKをもらう。
・段ボールに詰めた荷物をどんどん出されたり、必要なものをゴミ箱へ、いらないもをスーツケーズに押し込まれたりと、なかなかはかどらなかった。
・大事なものなど惜しむ暇もなく、実家の家屋などすべて不動産屋に任せ、家財道具などすべて処分してもらった。
・とにかく、飛行機に乗るだけで精一杯だった。
◆居候
・渡伯した日から2週間は、声をかけてくれた友人宅へ居候していた。
◆倉庫暮らし10か月
・友人宅近所の倉庫を借りて母と犬とで暮らし始めた。
・文字通りの「倉庫」で寝る部屋以外の台所やシャワーなどには屋根が無い為、雨の日は傘をさしていた。
◆レストランで働く
週4日11am ~3pmまで働いたアルバイ料と母の年金でなんとか暮らしていた。
母はその間、犬の散歩しながら時間をつぶした後、いつも私が終わるのを店の前で立って待っていた。
◆ぎっくり腰
私が2回目のぎっくり腰になり、なかなか治らないでいる頃「日本から来た整体の先生がいるよ」と紹介され、週に一度、母も連れて行くようになる。
◆引っ越し
・そのご縁から先生に誘っていただき、一世の方が多くいる集いに母と顔を出すようになる。
・そんな中、私達親子の現状を心配くださる方々が、「集いの場の近所でよい部屋が空くよ」と知らせてくれ、渡伯間もない私に変わって借りる為の細々としたサポートをしてくださった。
・借家の保証人になると名乗りをあげてくださる方もあって、現在まで安心した環境で生活をしている。
⇒友人家族
・母の症状を目の当たりにしてかなり戸惑われ、居候生活はうまくいかなかった。
・認知症への一般的な誤解や認識不足はどこにでもあるので仕方のないこと。
⇒思わぬ展開
・毎日のように母に「ごめんね、こんなことになっちゃって」と謝っていた。でも母は、「大丈夫、大丈夫」と言ってくれ、日本に帰りたいとは一度も言わないでくれた。
・この追い詰められた状況に、かえって母は「守ってあげる」という気持ちがわいたようで、緊張感があった。
⇒優しさに触れて
・何より、皆さんが私たちの為に話し合いをもって、真剣に受け止め考え、実際に手を差し伸べてくださった。
・このとき初めて人の優しさ温かさに触れ、、〈ずっとここにいても良いかなぁ〉と思えた。彼らには一生返せない恩を受け、今も心から感謝している。
◆サントスへ
・渡伯から2年半が過ぎたころ、集っている方から「お母さん、サントス厚生ホームへ行かれたらどうだろう?」と紹介してくれた。
・これを機にいくつか日系の老人ホームを母と二人で巡り、最終的に母が「行ってみたい」と言い、私も雰囲気が良いと感じたサントスへ入所することに。
・申し込んでから様々な審査や検査、面接を受けて、
2か月後に入所できた。
◆ホーム生活
・今は、週2回11am~3 pmごろまで訪問している。
・二人で買い物に出かけ、部屋の片付けをしながら色々な話をする。
・職員の方の話だと、母に「次は〇日にくるよ」と伝えてもすぐ忘れてしまい、毎日、玄関で私が来るのを待っているそうだ。
⇒わたしの想い
・当時、すぐ近所のブラジル系の老人ホームに入っていた(8カ月ほど)。日中は自宅で過ごし、夜ホームへ戻る生活を送っていた。しかし、母はそのホームを嫌がっていた。
・「サントスへ」と言われたときは、〈そんな遠いところではなかなか会えないし心配〉と気のりはしなかった。
⇒母の想い
・母は母なりに私を理解し気遣ってくれての発言なのだろうと思っている。私は翻訳の仕事で集中したいときがあったりするし、一緒にいると性格が似ているせいかどうしてもぶつかり合うこともある。そんな私を思ってホーム行きを決めたのだろう。
⇒待つ母の姿
・そんな母の姿を思うと、本当に申し訳なく思う。いつか、母の方がうんざりするほど一緒にいてあげたいと思っている。
◆ブラジル人の人柄
・出会う人みな、大らかで穏やか。偏見がなく先入観をもたないで接してくれる。
私たちを見て陰口を言う人もなかったので、人目を気にすることなく遠慮もなく、自由にしてくれた気がした。
・「困っている」という事実だけに向き合ってくれる広い心をもった人たちに囲まれていると感じている。
実際、手を差し伸べてくださる方々もあって、そのようなことは普通〈なかなか出来ることではない〉と痛感しています。
◆日系人の強さ
・特に日系人の方は、みなさんそれぞれに並大抵ではない苦労を乗り越えてこれた強さがあり、その強さの中に
大きな優しさをもっておられます。そのような方々に随分と助けられたと思います。
◆帰りたいとは思わない
・日本は祖国として愛してはいるが、これまでホームシックになったことは一度もない。
・ブラジルに来て心も身体も、母との関係も救われた。
・母の体調や症状もトータル的に良くなってきていると感じる。
認知症は治るものではないので一生の問題として向き合っていかなければならないが、サントスのホームへ入所してから、母に合ったケアーをしてくれているようで、症状が軽くなったように思う。とくに調子の良いときが更に良くなっている。
◆取り戻せた幸せ
・日本での介護生活で、憎しみ悲しみ怒りが悪循環するの中、唯一大切な家族である母に対して、〈死んで欲しい〉と思っていた私自身が、母を以前のような(発症前)愛しくかけがえのない大好きな存在として、想い慕い愛する気持ちを100%取り戻せたことが本当に本当に嬉しい!とにかく今は、母が生きてこの世に存在してくれていることが本当に有難いと思っている。
・私と母の命をつないでもらって、さらに母との関係も取り戻させてもらえて、ブラジルに、また、ここで出会った人たちに感謝しています。
◆分かち合いの介護
・〈自分一人が大変!何とかしなくちゃ!〉と続けていると壊れてしまいます。そうならない為に、視野を広げることは大切です。きっと手助けしてくれる方がいるはずです。そのときは、素直に助けを求めることが大事です。そのお蔭で私は、〈人の手を借りても良いんだ〉ということを学びました。頑張っても頑張ってもダメな時は、素直にお願いする生き方や心構えを教えられ、今は「助けてくれる人がいるよ」と自分自身に声をかけてあげられるゆとりも生まれました。
もちろん、今でも大変なことや辛いことはあるけれど、逃げ出したりあきらめたりせず、〈生きていさえすればなんとかなる!〉と思えるようになりました。
・介護は家族や親類、他人とで分かち合うことが何より大事だと思います。一人では絶対に無理だと思います。
私は一人で頑張らなくていいことを知って、とても気持ちが救われました。
そして、今、母の介護をみなさんに分かち合っていただいていることをとても有難く思っています。
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スタッフがインタビュー形式で聞き取りいたします。
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