介護は突然やってきた!

試行錯誤のなか教えられた¨心のふれあい¨

 ✿「マナカスタッフ・とも」のケース /サンパウロ在住

当時の姑と娘
当時の姑と娘

 

「介護なんて、まだまだ先のハナシでょ!?」

「夫には兄も妹もいるから、もしかしたら私には関係ないかも!?」と気楽に考えていた私…

 しかし、それは突然やってきた!

穏やかで優しくおしゃべり好きな姑が認知症によって変わってゆく様に動揺しつつ幼い娘に助けられながら、ほんとうに大切なものを受け取った介護の日々。

介護期間・・・2009~10年・・・在宅介護。

介護以前の姑との関係はとても良好で1日中おしゃべりに花が咲くほど気が合った。

姑はクリスチャンで、人には優しく思いやり、家族の為に苦労したがそれを見せない

穏やかな人柄だった。

◆姑・・・当時87~88歳

一世/日本語のみ/渡伯歴45年/実子3人

◆介護理由

乳がん&認知症を発症したため

◆介護内容

一時預かり=1年間⇒義妹の介護の合間

在宅介護=半年間

わたし

◆当時38~39歳・渡伯歴4年

◆夫=2世(当時40歳代)

◆子供=1人(当時2~3歳)

◆専業主婦の傍ら自営業の事務手伝い


◆結婚を機に移住した土地に一人暮らしをしていた姑だったが、高齢を心配した妹家族がサンパウロへ呼び寄せた

◆半年を過ぎたころから、姑の言動に認知症の症状が出始める

◆その半年後、本人が「胸のしこり」に気づき検査。乳がんと判明

本人には伝えず、手術もしないことを決断

介護するきっかけ

◆妹夫婦は共働きで、一人娘もまだ幼く、ますます手がかかる姑の介護は大変になっていた

◆夫に姑との最期の時をもって欲しいと願い、

わたしから「しばらく預かりたい」と妹に願い出た


大変だったこと  ➡⇨➡

◆薬を飲ませる

決まった時間に飲んでもらいたいけれど、飲みたがらない。薬を飲む必要性が分からなくなっているので「なぜ、薬ばかりを飲ませるのか?」と、嫌悪感を強くされた。(薬=血圧・乳がんの痛みどめなど)

***

◆「帰る!」

夕方になると、急に荷物をまとめ出ていこうとする。

幸い自宅内からも鍵を差し込まないと表玄関は開けられないので、実際外出は出来なかったが、ガレージと玄関との短いスロープをイライラしながら行ったり来たりしていた。

***

◆物を隠す

お菓子の食べ残しや、ゴミ、石などを、タンスや靴、ポケットの中などに隠してしまう。 

***

◆乳がんの手当て

左乳房にあったしこり(乳がん)が次第に大きくなって

鉄板のようになり、皮膚を破って血と膿とが出てきて、その範囲がゆっくり広がっていった。

毎晩、薬を塗ってカーゼを取り換えるのだが、あまりに痛々しくて、涙をこらえるのに大変だった。

 

 

 

***

◆幻覚とお話する

とくに日中、幻覚の人?とお話し始める

ときにケンカになって、恐ろしい言葉を発したり、物を投げつけたりする

 

 

 

➡⇨➡ その対応

娘や夫から「おばあぁちゃん、飲んでね」と言ってもらうと、自然に飲んでくれた。

おそらく、いつも言われている雰囲気と違う感じがして抵抗がなくなるのだと思う。

 

 

 *** 

「ここがお家でしょ」などと言い聞かせようとするのは失敗だった。また、放っておいてもイライラしてて可哀想になる。困ったなぁと思っていたら、当時2歳だった娘が「おばぁちゃん、わたしも一緒に行ってあげるね」と手をつないで2人で行ったり来たり・・・。そのうち、「もう疲れました。帰ります」と自分から自宅内へ。それが、毎日のように続いたが、後になって思えばよい運動になっていたかも?

 

 

***

隠すことは止められなかったので、娘に宝探しのようにして、姑の食事中などに探してもらった。 

***

なぜ、人の良い姑がこんなことになったのか?と悔しく思う瞬間でもあった。でも「これが、老いるということ自分もいずれ介護される身になるんだ」と言い聞かせ、感傷的にならないようにした。

「どうしたの?」などと話しかけると、幻覚がこちらに向かってきて手に負えなくなるので放っておいた。

娘がある時から、「おばあちゃん、悪いヤツがいるのね。わたしがやっつけてあるげる。コラァ~、おばあちゃんをイジメるな!あっちいけ~」とわめきだした。すると、その勢いに押されるのか「はい、もう行ってしまいましたから」と収まることがしばしば…。


つらかったこと

◆夫からの労りがなかったこと

手伝うことだけでなく、相談も聞いてはくれなかった

衝突も増えて、彼との間でストレスがたまっていった

◆自分のしていることが、姑にとって良いこととは思えなくなって自己嫌悪に陥ったりしたこと

◆気をぬく時間や心の余裕がなかったこと

今にして思うこと

◆夫がまるで他人事のように関心を見せなかったのはもしかしたら、認知症で言動や顔つきまでかわってゆく母を、また、死に向かって確実に進行している母を直視できなかったのでは?きっとわたし以上にツライ思いを毎日していたのかもしれない。そう思うと、いろいろ求めたのは酷だったのかも?とも思う。

◆姑に対して、堅苦しい生活をさせた気がする。もっと柔軟に対応できれば良かった。

着替えを嫌がる時は洋服のままで寝かせても良かったし、昼寝しすぎて夜眠れない日があっても、ご飯がすすまない時は甘いものですませても問題はなかったはずだ。風邪をひかせないために、寝たきりにさせないように、トイレなど自分でできることを無くさせないために、と考えすぎ、責任を負い過ぎて、姑の素直な気持ちに寄り添えなかったことはとても申し訳なく思う。姑にも自分にも甘くいい加減くらいが丁度いいと思えている方がバランスのよい介護生活が送れた気がする。


喜んでもらえたこと

◆お風呂

狭いシャワー室で椅子に腰かけてもらい、介助しながら入浴してもらった。入浴中は嫌がらずに言うことを聞いてくれた。入浴後は娘が体に保湿クリームを塗り、着替えを手伝い、髪の毛を乾かしてあげていた。 

普段は笑わない表情になっていたが、その時だけは薄っすら微笑んだりした。

◆童謡や賛美歌

孫娘がうたう童謡にあわせて大きな声でうたったり、賛美歌をCDで流すと、ずっと口ずさんでいた。もともと歌が大好きだったせいか、大きな声で昼夜問わずうたっていた。でも、きっと良いストレス解消と内臓の運動になっていたと思う。 

ブラジルでの介護をどう思う?

◆「嫁だから」というプレッシャーはかけられずに済んだと思う

◆親戚、ご近所や知人にまったく干渉されなかったので気が楽で、わりと自由にできた

◆デイサービスなど外部からのケアーを受けにくい

情報収集の方法を知らない&言葉の問題などで

よかったこと

◆認知症

乳がんが判明してから、一段と認知症の症状が現れはじめた。2つの大きな病気を患い、つらい介護生活になるだろうと予想していたが、認知症のお蔭で、本人は乳がんの現実に向き合わずに済んだ。痛ましい我が乳房を見ても最初のうちこそ、「あれ?血が出てます。どうしてかしら?」と言っていたが、最後の方はそのことすらまったく気になっていなかった。多分、認知症でなかったら姑は身体以上に心が痛み苦しんだに違いない。その姿を見る家族も辛かったはずだ。がんによる傷口が進むにつれて、認知症は神様から授かった病気のように思え感謝さえしていた。

◆孫娘の存在

介護するのに幼い子がいると、世話が2倍になって大変だと思っていたが、まったくそんなことはなく、かえって助けられた。認知症の姑の魂と、2~3歳の孫娘の魂はピタッと一致し、何をするにも心が重なって楽しげだった。表情がなくなり言葉がなくなり感情が激しくなる一方の姑に対して、なんの違和感も抵抗も躊躇もなく、自然に単純に接することができたのは家族の中で彼女だけだったのではないだろうか。また、姑も自分の思うことやしたいことを、ありのまま受け止めてくれる孫娘に安心感を抱いていたように思う。


見送って

我が家に来て半年が過ぎたころ、「帰りたい」と言って夜寝ようとしないし、わたしを遠避けイライラすることが多くなった。その大きな理由は、風邪をひいた際、薬をなんとしてでも飲ませようとしたことだと思う。

仕方なく、妹夫婦のところへ帰して1週間後、「息が苦しい」と訴え病院へ。その前に「もう会えなくなるから」と我が家へ立ち寄ってくれた妹夫婦。元気だったころのようにニコニコと微笑み娘を抱きしめてくれた姑の姿が忘れられない。その5日後の早朝、一人静かに息をひきとった。全身全霊で「老いること・死ぬこと」について教え、大事な命のバトンを手渡して逝ってくれた。棺に入った姑を見て涙が止まらなかったけれど、それは寂しい以上に感謝の気持ちがいっぱいだったから。

介護経験から学んだこと

◆純粋な心で接するほかないこと

とくに認知症の相手には、お世辞やごまかしなどは通用しない。子供以上にありのままの心がむき出しになる。それに向き合うのは相当に辛いことです。だからこそ、裸の心で対応しないとすべてが上手くいかなくなってしまう。

懸命に姑の為にとガンバルわたしより、満足に相手もできないけれど、純粋で単純な孫娘と居る方が和やかで安心した表情をする姑を見てつくづく感じた。 姑は本能で見抜いていたのでしょう。 

◆キセキの連続

「完璧だ!」と思うことがひっくり返され、「これじゃ、お義母さんに悪いな~」と思うことが受け入れられ・・・と

なにをやっても思い通りにならない。だけど姑は教えてくれた。「難しいことはいらない。出来ないことは無理しなくていい。満足させようとしなくていい。ただ、わたしを好きでいてちょうだい」例えこちらが失敗しても間違っても下手にしても、その心さえあれば、何も分からないであろうと思われる姑の方が、それを受け止め許し愛で返してくれる。そんなキセキ的(人間的?)な出来事を経験できたことは本当にかけがえのないものとなった。

◆命をつなぐということ

「人は老いていずれ死ぬ」看取ってみてはじめてそれが怖いものでなくなった気がします。それは、姑が果たすべき人生をまっとうし、命を我が娘にへとつないでくれたことを実感できたからかも知れません。

また、幼い娘に祖母のいた倖せと、人のお世話ができる喜びを伝える良いきっかけになったことに感謝しています。娘が「ママがおばあちゃんになったときは、ママみたいにすればいいのね」と言ってくれた時、わたしの労苦は報われた気がしました。

◆「介護」は一言では言えないし、状況や環境など、さまざまなケースによって対応も何もかも違ってくるので他人と比べることは難しく、また、分かち合える人が傍にいないことも多いので孤独になりやすく、決してたやすいことではないのでしょう。でも、介護される側も大変なのではないかと想像します。姑は元気なころ「老いては子に従え。というからね」と、子供たちの言うことによく従っていました。その本心は「子供に迷惑をかけないで死んでゆきたい」との強い願いがあってこそでした。

相手の老いも病気も現実も逃避もすべてありのままに受け止め、自分を美化することも卑下することもなく、上手くいかなくても、頑張らず落ち込まず、ただ、「好き」という純粋な心で接することができれば、大切な相手は喜んで介護されてくれるのかもしれないなぁ、と今後に向けてそう思っています。       投稿/2014.12

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